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旅順概要

旅順は遼東半島の最南端に位置して、三方を海に囲まれています。海を隔てて山東半島が眺められます。旅順は渤海湾の要塞で、北京、天津の玄関口です。軍事的地位がとても重要です。

  旅順の総面積は500ku、街の面積は34ku、海岸線は170キロです。街は新市街と旧市街に分かれ、総人口は21万人、市街の人口は7万人です。

  旅順軍港は清の末期に築いて、現在、海軍が使っています。旅順は軍事用地なので、外国人は立ち入れ禁止です。1996年7月10日より旅順の一部分が外国人向けで開放されるようになりました。

  今から約5千年前、私達の先祖たちが旅順あたりで生活するようになり、現在、たくさん発見された遺跡がよく証明されています。中国の史書によると、旅順は晋の時代「馬石津」と、唐の時代「都里鎮」と、元の時代「獅子口」と呼ばれました。約600年前、明の両大将軍は軍隊を率いて、山東半島から海を渡って、「獅子口」から無事に上陸しました。順調の旅を記念し、旅の順調の意を取って、「獅子口」を「旅順」と改めたそうです。それは現在の旅順という地名の由来です

  旅順は丘陵地形なので、東北が高く、西南が低いです。最高峰は老鉄山で、海抜465.6m、千山山脈の南端に位置します。旅順には二つの川があり、北大河は全長13.5km、龍河は9.4km。海岸線の長さは151kmで、海産物の養殖と漁業の基地です。天然良港が幾つかありますし、海水浴場も綺麗です。

  自然に恵まれる旅順は、果物や海鮮物が非常に豊富です。リンゴ、葡萄、桃、スモモ、サクランボ、棗などの果物が取れますし、車えび、ナマコ、鮑、帆立貝、烏賊、蟹などの海産物も取れます。

日清戦争と日露戦争概要

1894年の春、朝鮮では大規模な農民蜂起が爆発しました。朝鮮政府の願いに応じて、清朝軍隊は朝鮮の牙山に出兵しました。当時、日本軍もこの良機を逸しないように、今の韓国のソウル西の仁川から上陸しました。まもなく朝鮮の農民蜂起を鎮めて、清政府は日本政府に中日双方が同時に朝鮮から撤兵することを提案しました。しかし、日本政府は朝鮮内政の改革を援助するという名目で、引き続き朝鮮に出兵しました。当時、清の最高権力者の西太後は対日作戦の準備にはあまり積極的ではなく、自分の六十歳誕生日を祝うため、海軍拡充予算の白銀を北京頤和園にある万寿山の新築に使い尽くしました。

1894年7月25日、日本海軍は牙山付近の豊島で清軍の輸送船を襲撃しました。清軍の護衛船2艘が大破され、兵員輸送船1艘が撃沈され、千人以上の兵士が遭難しました。

8月1日、清政府は宣戦して、日清戦争の幕が開けました。

旅順沖の海面で、大海戦が始まりました。中日双方とも損失が大きかったですが、清の北洋水師(李鴻章の創立した海軍)の主力軍はまだ温存されていました。しかし、腐敗した清政府は対日作戦について、終始、消極的な態度を保持したため、結局旅順は陥落してしまいました。日本軍は旅順を占領したと、当地の住民2万人を大虐殺しました。旅順にはいまでも「万忠墓」という当時の犠牲者を祭った墓が保存されており、1994年に日清戦争百年を迎えた時、「万忠墓」の隣に新しい記念館を建てました。

日清戦争後、日本政府は清政府に強制的に「下関条約」を結ばせられました。条約の内容として清政府から日本に2億両白銀の戦争賠償金を賠償し、日本に港を開放したと共に、遼東半島、台湾島、澎湖列島を日本に割譲しました。

なお、当時、帝政ロシアも中国東北地方を自分の植民地とする欲望があり、フランス、ドイツを糾合して、日本と交渉し、遼東半島を中国へ返還することを強要しました。(いわゆる“三国干渉還遼”)

その時、日本は工業発達国ではなかったので、ヨーロッパ列強に直接衝突することを避ける為に、帝政ロシアに妥協して、遼東半島を中国に返還しました。その代償として、最後に清政府から三千万両の白銀を奪いました。それは後の日露戦争の種となりました。

1896年、帝政ロシアは冬越しを口実として、艦隊は強制に旅順港に入りました。そして、1898年に無理やり旅順を租借しました。長く旅順を占領するため、旅順の各地で防御工事と砲台を築きました。

一方、日本は旅順をそのままロシアに譲りながら、軍備の拡充を図って、もう一度旅順に入ることを待っていました。

十年後、1904年2月8日、日本の連合艦隊は突然旅順港に停泊していたロシア軍艦を襲撃し、ロシア軍は多大なる損害を受けました。2月9日に帝政ロシアは日本へ宣戦し、2月19日に日本も帝政ロシアへ宣戦して、日露戦争を爆発してしまいました。

日露戦争は8回の海戦と4回の陸上総攻撃戦を行いました。海戦の場合、日本軍は海上から旅順を囲んで、港の中に泊まっている帝政ロシアの軍艦が出られないように、港の外に水雷を配置したり、出口の所に船を沈ませたりしました。

陸戦の主な戦場は東鶏冠山と203高地で、その攻防戦は約五ヶ月が経ちました。日本軍とロシア軍は合わせて26万人の兵力を派遣しましたが、そのうち死亡者は約5万人です。

1905年1月1日にロシア軍は降伏しました。翌日1月2日に、日露両側の代表は旅順の水師営で会見して、《旅順開城条約》を結びました。1月13日より日本軍は正式に旅順に入り、占領しました。1945年まで、大連と旅順は日本の植民地として40年間統治されました。日露戦争は大連と旅順の人々に莫大な災難をもたらしました。

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