【東鶏冠山北堡塁】
日清戦争が終わってから、1898年に帝政ロシアは強制的に大連、旅順を租借しました。長く占領するため、1900年から地元の中国人を拉致して、ロシア軍ウェリチカ将校の設計によって、旅順の周辺で約20キロ余りの軍事防御線を築きました。防御線は五角型で、総面積は9990u、周りは幅10m、深さ6mの塹壕で守られました。重機関銃と30門の大砲も設置しました。北保塁はセメント、石ともちこめで建てられて、厚さは1.5mです。一説によると、そのセメントは日本から輸入したものだそうです。は玄関、軍官室、電話室、弾薬倉庫、兵舎などを備えております。当時、ロシア兵士は約300人が守備していたそうです。
日本軍は最初「正面強行攻撃」を採りました。国内から当時最新鋭の280mm榴弾砲を18門運んできて、攻撃しました。その榴砲弾の弾薬は重さが217キロ、射程距離が7.8キロです。しかし、いくら砲撃しても堡塁が落ちませんでした。
その後、「トンネル作戦」に変わりました。つまり、東鶏冠山の麓から何本か地下道を掘り、その長さは合わせて4000mでした。2.3トンの爆薬で爆破して、占領しました。ロシア軍の兵隊では人気のある陸上防御司令官コントラチンコ少将も北保塁で戦死した後、ロシア軍の士気は急速に低下してしまい、降伏しました。4ヶ月の間に日本軍の死傷者は800人余り、ロシア軍の死傷者は300人余りいました。
東鶏冠山北堡塁のすぐ隣に「望台砲台」という山が見えます。あそこは旅順で最後に陥落したロシアの防御工事です。頂上にドイツ製の大砲が2本あり、ロシアの軍艦からはずして配置したものです。
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【203高地】

日露戦争中、203高地は旅順西部の最激戦地です。海抜206m、軍事地図の中で203番なので、「203高地」と呼ばれています。
日露戦争爆発後、ロシア軍は慌ててその陣地を築いたもので、そんなに丈夫ではありません。日本軍は東鶏冠山で敗退してから、攻撃の重点を「203高地」に移し、最後に1万人余りの死傷者の代償で、占領しました。ロシア軍の死傷者は約5000人ですが、乃木希典の次男乃木保典もそこで戦死しました。
乃木希典は1万人余りの日本兵士の若い生命で203高地を攻略したので、日本国民の恨みを買いました。そのため、天皇崩御の際、乃木希典も切腹自殺したわけです。
日本軍は「203高地」を占領しましたと、観測所を設置しました。弾着を修正しながら砲撃しましたので、港内に泊まっていたロシア軍艦に大きな損害を与えました。「203高地」の陥落は日露戦争の局面を日本軍に対して有利に転しました。
戦後、「203高地」の頂上に「爾霊山」という記念碑を建てましたが、中国語の「二○三」の発音に合わせて、「爾霊山」と改称し、塔体に刻んだ文字は乃木希典の題字だそうです。
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【旅順博物館】
帝政ロシア時代、「将校クラブ」として使われていました。日本軍が旅順を占領した 際、1917年に「関東州満蒙物産館」として落成しました。1954年になって、「旅順博物館」と改称しました。
敷地面積25000u、陳列面積2400u。「歴史文物専題陳列館」と「大連地方歴史文物陳列館」に分けて展示しています。また、1300年前のミイラも(日本大谷探検隊がトルファンで発掘した。)陳列されています。
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【水師営会見所】
日露戦争終戦の際、日本軍から、日露両軍委員の会見場所として指定されました。1905年1月5日、会見所で、日本の乃木希典とロシアのステッセルが会見して、「旅順開城条約」を結びました。1916年に日本満州戦跡保存会が会見所の家、庭及び棗の木を保存し、庭の真中に『水師営会見所』という石碑を建てました。1945年、旅順解放後、会見所は取り壊されました。
1997年8月、市民と青少年に対する愛国の教育基地として復元しました。
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【旅順軍港】
旅順軍港は遼東半島の最南端に位置し、歴来、兵家の要地なので、その戦略の地位はとても重要です。清朝は軍港を東側と西側の二つの部分に分けて建設されました。東側の港は幅が75メートル、水深が5.6−8.8メートルです。西側の港は幅が220メートルで、水深が浅いです。1880年から1894年まで両側の海岸では13個の砲台を作られましたと共に、港内では大型の近代的な造船修理場を建てられました。そのため、旅順軍港は昔から世界に知られている天然良港で、当時、世界の五大軍港の一つだと認められました。
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【旅順駅】
旅順駅は遼東半島の最南端の駅です。木造のロシア風建物は帝政ロシア統治の1903年に建てたものです。1900年4月に帝政ロシアはハルピンから旅順までのレールを敷きまして、1903年7月に東清鉄道の南満支線を開通しましたが、1904年の日露戦争爆発につれて、鉄道の運輸も中断されました。1905年に日本は南満鉄道の使用権を取って、運輸を回復しました。
1945年に日本敗戦後、ソ連軍は旅順駅を管轄し、1952年に正式に我が国政府に返しました。
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【白玉山塔】
白玉山は海抜が130メートルです。山頂には蝋燭のような塔がありますが、日露戦争が終わってから、日本海軍大将東郷平八郎と陸軍大将乃木希典の提案で、25万円を募金し、2万人の労力を使って、1907年6月に着工し、1909年11月に完成した「表忠塔」です。「表忠塔」の高さは66.8mで、塔内には24階の旋転階段を建て、21個の窓が設けてあります。24階の旋転階段がアメリカでわざわざ注文し、製造した物で、塔の基盤に使った石は殆ど乃木希典の故郷である山口県徳山から運んできた花崗岩です。
1985年に旅順口区政府は山の名前によって、「表忠塔」を『白玉山塔』と改称しました。現在、日本軍国主義者と帝政ロシアが中国を侵略した証拠として保存しております。
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